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アプリ開発私塾に小学生 スマホが迫るIT教育の変革

日本では専門的なIT(情報技術)教育は義務教育を終えてからでないと受けられない――。そんな状況を打破しようという動きが広がってきた。生まれたころから、デジタル機器とネットに囲まれて育った「デジタルネーティブ」の世代の子どもたちが、高度なIT教育を受ける場を求め始めているのだ。きっかけはスマートフォン(高機能携帯電話=スマホ)の爆発的な普及。将来の就職も見据えて、親たちも最先端のITを学ぶ環境を求める。こうした声に応える主役は今のところ公教育ではなく、ベンチャー企業の「私塾」だ。

■母親を説得、小学6年生が専門の講座を受講

 「ここからがちょっと難しいですからね」

 7月上旬。都内のオフィスビルで開かれた米アップルのiPhoneアプリの開発講座「レインボーアップス」。講師の説明を聞き入る大勢の大人の受講生に混じって、真剣な表情の1人の少年がいた。井出智也君。年齢は11歳で都内の小学校に通う6年生だ。




小学6年生の井出君は天気関連のiPhoneアプリを開発中で近くリリースする予定だ
 「人が作ったゲームで遊ぶよりも、自分で何かを作って公開するものづくりのほうが楽しい」。井出君は講座に参加した理由をこう話す。

 井出君は生粋のデジタルネーティブ。IT関連の企業に勤める父親の影響で、コンピューターには1〜2歳から触れていて、幼稚園のころにはiPodの話をよくしていたという。

 プログラマーを目指すきっかけはアップルの快進撃だった。「アップルが世の中の人たちにものすごい影響を与えている印象が強くて。母と寝る前までウィキペディアスティーブ・ジョブズ氏のことを調べてあこがれた」と話す。4年生の夏には中古のiMacを買ってもらい、独学を始める。

 5年生のとき、あるニュースが目を引いた。「米国で12歳の子供がiPhoneアプリを開発しているのを知り、自分でもやってみようと思った」。それから図書館に通って専門書を探したが、iPhoneアプリの開発に詳しい本をみつけられなかった。そんなときに出会ったのがレインボーアップスだった。

 当初、母親は「プログラミングに講座なんて必要なの?」と心配したが、井出君は「どうしても専門の講座を受けたい」と訴えた。「将来の役に立つなら」と母親も最後には折れた。


 動画投稿サイトの「ユーチューブ」には無数のアプリ開発の講義が投稿されている。井出君はこうしたウェブ上の講義も見ながら現在、iPhoneアプリの開発に取り組んでいる。「実用的な天気アプリをつくりたい。天気予報をテレビで見ない人が増えているので、雨が降りそうなときにタイマーで知らせる機能とかあれば便利ですよね」。

 すでに1700人の受講生を輩出したレインボーアップス。井出君のような小学生の受講生はまだ一部だが、講座を主催するジークラウド(東京・江東)の渡部薫最高経営責任者(CEO)は「プログラミングはこれからの時代を生き抜く技術になる」と強調する。

プログラマーの人材需要は拡大する一途

 iPhoneやiPad、米グーグルのアンドロイドの普及が加速。手のひら上で使える高度なウェブサービスが生活の必需品となるなか、優れたプログラマーを求める人材需要は拡大する一方だ。

 ITベンチャークラウドワークス(東京・港)は今年3月、企業と個人やフリーランスプログラマーなどを仲介する事業「クラウドワークス」を始めた。7月中旬までに3000人が利用し、募集案件総額が3億円を突破した。受注者の7割が35歳未満で、9割が個人・フリーランスだった。




ピスチャーのアプリ開発体験講座では初心者も簡単なゲームを作製できるようになる
 問題は、日本の公教育がこうしたIT人材需要の高まりという変化に対応できていないことだ。「黒板を電子黒板化するように、アナログなものをデジタル化するのがIT教育の本質ではない」(ジークラウドの渡部CEO)と指摘する。「iPhoneのような新しい道具を日常生活でどう有効に使うか。ITで世界とつながり、創造的なモノを生み出す力を育てるかが重要だ」と強調する。

 渡部氏は現在、3歳から12歳までを対象にした新しい幼児教育のあり方を模索している。「音楽や芸術、自然科学、そしてITを英語で学ぶ習慣をつけられるカリキュラムを考案したい」。構想段階だが、近く事業化する考えだ。

 渡部氏だけではない。対応が遅れる公教育を横目に、子ども向けのIT教育に力を入れるベンチャー起業家が増えている。中・高校生向けIT教育を展開するピスチャー(東京・渋谷)の水野雄介社長もその一人。

 水野氏は慶応義塾大大学院在学中に開成高校の物理非常勤講師を2年務めた後、人材系コンサルティング会社を経て、2010年7月にピスチャーを設立した。「デジタル技術に生まれたときから親しんできた今の子どもたちの創造性や技術を伸ばす教育システムが日本にない」と考えた。

 ピスチャーは主に夏休みなどに大学の教室を借りて中・高校生向けに3〜5日間の技術学習キャンプを開く。1年目の夏は40人だった参加者が今年の春には200人に増え、今夏には300人に達する勢い。「特に中学生が多い。ちょうど親の年齢は40歳前後で、肌身でソフトウエア技術の重要性を理解している人が増えているのが背景にありそう」(水野社長)と言う。

■目指すは「ITのディズニーランド」




ピスチャーが開いたアプリ開発体験講座には多くの少年少女が参加した
 東京・秋葉原で7月中旬にピスチャーが開いた無料体験講座をのぞいてみた。無料講座では1日かけてiPhoneアプリのカーレースゲームを制作する。音楽が流れる教室には28人の少年や少女が楽しそうな表情でiMacのキーボードを打ち込んでいた。ピスチャーの教育信条は楽しく学ぶ。「ただ、スキルを身につける場所にはしたくない。目指すはITのディズニーランド。プログラミングが好きになるエンターテインメントの場を提供したい」(水野社長)と話す。

 小学6年生の男児を無料講座に通わせた母親に話を聞くと、「こんなに集中している息子を見たことがない」と驚いた様子。「学校の先生にはエクセルやワードを使いこなせない人もいる。パソコンの導入などは進んでいますが、ITをしっかりと教えられる先生が少ない」という小学校のIT教育への不信感が動機と教えてくれた。

 水野社長の夢は大きい。「10年間で20万人の受講生が目標です。高校野球の競技人口は16万人。同じ母数がプログラミング分野でも生まれれば、IT業界のイチローが生まれてくる」と真顔で話す。「時代が変化するときには、福沢諭吉吉田松陰のように私塾から人材がまず生まれてくる」とIT人材輩出の核になる気構えだ。

 パソコンからスマホ時代への移行は、ITのさらなる「大衆化」を意味する。今後は、そろばんや習字と同じように、習い事としてプログラミングを習う子どもたちも増えるだろう。ただ、私塾レベルにとどまれば、日本のIT教育の底上げは限界がある。かつて隆盛をほこった日本の電機産業が軒並み韓国や中国、台湾勢との競争に敗れて業績不振に陥り、ITでは米国が独走している。その大きな要因が教育体制にあるのは間違いない。日本のIT教育を仕切り直し、攻勢に転じるために、最も変革を迫られているのは公教育と言っていいだろう。