五感を超える力 英知、使いこなせるか

http://www.nikkei.com/article/DGXNASM117001_Y2A910C1SHA000/


 インターネットが普及し始めて約20年。その存在は黎明(れいめい)期とは比較にならないほど巨大になった。コンピューターの性能向上と小型化、価格の低下。とどまることを知らない技術革新がネット利用者の裾野を爆発的に広げ、それがまた見たこともないような力を人類に与える。ネットの巨大な力をわれわれは使いこなせるか。史上まれにみる挑戦が始まる。



小型ヘリコプターからの映像がゴーグル型のディスプレーに映し出される視覚拡張システム(東京都目黒区の東京大学大学院)
 記憶力は無限大。目ははるかかなたを見通せる――。IT(情報技術)を使い、人類をサイボーグ並みにパワーアップする研究が進んでいる。場所は東京・目黒の東大駒場キャンパス。体験に出かけてみた。

■薄れる境目

 まずメガネ型デバイスを試す。重さ36グラム。かけ心地はごく普通だが、手元の英文を目で追うと、隣のパソコンからそれを読み上げる声が聞こえてきた。メガネに組み込まれたカメラが眼球の動きをとらえ、何に注目しているのか分析。役立つ情報をデータベースから探し、音や文字で知らせるしくみという。

 「この人、名前なんだっけ」「あの漢字の読み方は」。頭の中の記憶はあいまいでも、メガネでネットと直結していれば膨大な情報源から必要なデータを瞬時に呼び出せる。ど忘れ、勘違いの心配はもう、いらない。

 次にカメラ付き小型ヘリコプター。こちらの動きに連動し、しゃがむと高度を下げ、ジャンプすると急上昇した。体を離れた目玉のように操れ、遠い場所からも映像をディスプレーに送ってくる。サッカー選手のシュートを至近距離で見る、危険な事故現場に潜入する……。視野の概念がぐんと押し広げられる。

 研究を主導する教授の暦本純一(51)が言う。「境目がわからないほど人間とITが統合されるのが今後の世界。知力や身体能力、健康さえも高められる」。ITによる人類の進化。それが今、片りんを見せつつある。

 都内に住む伊藤浩平(28)はホームページ制作などを手がけるフリーのソフト技術者。仕事場でもある自宅を訪ねるとパソコンに入力した一文を見せてくれた。「私にとってネットはバーチャルではなく、現実です」

 生まれたときから耳が聞こえない。スキルを生かそうにも営業活動は難しかった。だが、受注から納品までネットでできるサービスと出会い、景色はさまがわりした。

 伊藤が使うのは2008年設立のランサーズ(鎌倉市)の仕事紹介サイト。システム開発やデザインなどを外注したい企業と働きたい個人をつなぐ。登録者は9万人。主婦や地方在住者などこれまで能力を眠らせていた人々が少なくない。

 「1万人が年500万円稼げるようにしたい」と社長の秋好陽介(31)。ネットは既存の産業を壊し、雇用を奪うとの悪玉論もある。一方で従来の統計ではとらえきれない働き方に道を開いた。「アラブの春」のような派手さはないが、日本でもネットが「静かな革命」を促している。

■力増す企業

 人類が価値創造の器として生んだ「企業」もネットで力を増す。トヨタ自動車もそのひとつだ。

 「やはり現地現物。現場で感じることに勝るものはない」。社長の豊田章男(56)は最近、日々の業務や思いを専用のSNS(交流サイト)につづる。約60人の役員も同様だ。急な環境変化に備えリアルタイムで問題意識を擦り合わせる。販売やサービスにかかわる世界1万人の社員を結ぶSNSもある。トヨタ全体で最善の知恵と経験を、国境を越えて共有する。

 IBMによると、世界のデータ量は今後3年で40倍になる。容量16ギガバイトスマートフォンなら5兆台が満杯になる量だ。24億人に達するネット利用者の発するデータが今後も幾何級数的な膨張を続けるとなれば、問われるのは人類の英知だ。

 DNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造を解明したジェームス・ワトソン、半導体大手、インテル創業者ゴードン・ムーア。知の巨人たちの業績を礎にイノベーションに挑む起業家が米国にいる。ヒトゲノム(全遺伝情報)解析のジョナサン・ロスバーグ(49)。ワトソン、ムーアのゲノムを読むのにも成功、力量は折り紙つきだ。

■気付けば丸裸

 ロスバーグが所属するライフテクノロジーズは今月、半導体を使い、わずか1日、千ドル(約8万円)でゲノムを解析できる装置の出荷を始めた。国際コンソーシアムが13年、30億ドルを費やしてゲノム解読の完了を宣言したのは03年。「解析を大衆化する」とロスバーグ。個人レベルで生命の設計図を持てれば投薬や治療を最適化できる。

 しかし――。

 ロスバーグは警告も発する。「好奇心旺盛な20代のネット起業家たちが自分のゲノムをネットで公開したいと言うが、やるべきではない」。ゲノムを見てアルツハイマー病にかかるかや、子供が遺伝病になるかなどが予測可能になったら……。公開したゲノムがもとで差別、プライバシーの問題を招きかねない。データの人類への反乱。ロスバーグは恐れる。

 ▽持ち主の居場所を特定しクレジットカードの不正利用を防ぐ▽性格や思考を割り出し人事の判断材料にする▽何がほしいか探りあてプレゼントを贈る――。米欧ではSNSの個人情報を使ったサービスや手法が編み出され、増殖している。

 一見、便利で効率的だが、われわれは自らネットに書き込む情報で、気づかぬうちに丸裸にされているともいえる。光も影も併せ持つネット。人類が直面する現実だ。(敬称略)