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福島の農家として生きた祖父の生涯

福島農家として生きた祖父の生涯

祖父他界した。享年84歳。男性平均寿命が80.79歳(2015年統計)を考えると、まぁ長生きだろう。

農家に生また祖父は、当然のように農家を受け継いだ。

やがて結婚し、4人の子を持つ。

時は流れ子どもたちは結婚し、祖父には孫ができた。

毎日米や野菜を作りながら、夏や冬の長期休暇、米の収穫期には手伝いにきた遠方に住む子や孫に会う。

普段体験しない農業に目を輝かせる孫と過ごす。そこそこ幸せを感じていたのではないかと思う。

ある秋。米の手伝いも終わり暇な私はひとりで田んぼ道を散歩していた。

自然豊かな田園風景は心地よく、気づけば長い時間が経っていたようだ。

そこに通いかかる一台の軽トラック運転手祖父だった。

いつまでも帰らない私を心配して探しに来てくれたらしい。

軽トラックを降りた祖父と、たわいもない話をしたことを覚えている。

やがて夕方になり、祖父運転する軽トラックに乗って祖父母の家に帰った。

ときは流れ2011年3月東日本大震災

祖父の住む場所は海にほど近く、家こそは無事だったもの田んぼ海水水浸しとなった。

海水に浸ってしまった田は米が作れない。1年は田んぼの整備に労力を費やした。

翌年、米を作り始めた。

原発事故の起きた南相馬にやや近く、「福島県」の祖父の米。打撃を受けないはずがなかった。

福島県の米の値段は急落した。国の支援は、個々の農家単位に届くようなものではなかった。

数年間は米を作り続けていたが、老いと米の相場の低さに、これ以上農家を続けていくのは困難としかいいようのない状況となっていた。

から受け継ぎ、何十年も共に過ごした田んぼ祖父は売った。

祖父認知症発症したのは、それから間もなくのことだった。

はじめはただ記憶力が低下しただけだと、家族や子、孫は感じた。

次第に言動が怪しくなり、認知症と診断された。

同時期に、足腰が弱くなり自力での歩行が困難になった。歩行器がなくては歩けなくなった。夏だった。

やがて冬、寝たきりとなった。

寝たきりとなった祖父は、震災のことは覚えていないようだった。

しかし、自分の畑がなくなったことだけは知っていた。

孫のことは忘れてしまったものの、食欲だけは立派にある祖父が、あと1ヶ月もたたないうちに他界するとは思っていなかった。

思っていなかったが、あっというまに逝ってしまった。聞けば、前日までごはんを食べていたらしい。

葬儀田舎ならではなのか、立派だった。

遺影で微笑む祖父幸せそうに見えた。

数年経った今でもなお、世間の「福島 農家」への風当たりは強い。Google検索キーワードが教えてくれる。

別に福島農産物積極的に買ってほしいというわけではない。消費は消費者自由だ。

しかし、震災祖父の畑をも奪っていった。

震災はまだ終わらない。永久に終わらない。

私は時折祖父を思い出す。もう何十年も使っているであろうにきれいに手入れされた鎌を持ちながら、黄金に光る田んぼ道で微笑む祖父

彼の人生が幸の多いものであったことを願わずはいられない。